沿革 概要

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日本美術院は、東京美術学校長の職を退いた岡倉天心が、大学の上に大学院があるように、美術学校においても美術院の設置が必要であるとの考えから、新時代における日本美術の維持と開発を指標として、明治31年7月、ともに東京美術学校を辞職した橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山らと創設した研究団体です。谷中初音町に研究所を建設し ( 昭和27年、東京都の文化史蹟に指定され、現在、岡倉天心記念公園として岡倉天心先生旧宅趾・日本美術院発祥之地碑が建てられています ) 、同年10月、落成開院した日本美術院において、日本絵画協会と連合して日本美術院展覧会を開きました。開院当初から地方展覧会を積極的に行い、雑誌『日本美術』を発刊し、研究会を発足させ、また、古社寺の国宝修理など、天心の指導のもとに広範な活動が展開されました。しかし、空気を描く工夫はないかという天心の示唆に答えた、大観、春草らによる新しい日本画の試み、輪郭線を用いず色彩の濃淡によって空気や光を表現しようとする描法は「朦朧体」と揶揄され、厳しい世評を浴びます。明治37年2月、天心は大観、春草、六角紫水を伴ってアメリカに渡り、ニューヨーク、ケンブリッジ、ワシントンなどでイギリスに留学中の観山の作品も交えた展覧会を行いました。日本で酷評された「朦朧体」は海外では好評を得ましたが、経営に行き詰まった日本美術院は、明治39年9月、規則を改正し、第1部 ( 絵画 ) と第2部 ( 彫刻 ) に組織替えをします。国宝修理を行う第2部 ( 大正3年に美術院と改称し、昭和43年に財団法人美術院、平成25年に公益財団法人美術院となりました ) は奈良に置き、第1部の研究所を茨城県五浦に移しました。 東洋のバルビゾンにしようとの天心の構想に、大観、春草、観山、木村武山も家族とともに五浦に移り住みます。五浦での生活は苦しいものでしたが、そのなかでの研鑽は、明治40年に開設された文部省美術展覧会を発表の場として、高い評価を受ける作品を生み出すことになりました。

大正2年9月、岡倉天心は逝去しますが、翌大正3年9月、天心の精神を引き継いで、横山大観を中心に、谷中上三崎南町に研究所を建設し ( 現在、公益財団法人日本美術院のある場所です ) 、日本美術院を再興します。再興された日本美術院には日本画のほかに洋画部 ( 大正9年9月に連袂脱退します ) と彫刻部 ( のち彫塑部と改称し、昭和36年2月に解散しました ) も加わりました。そして10月に日本橋三越本店旧館において日本美術院再興記念展覧会を開きました。これが現在、東京都美術館で9月に開催されている日本美術院展覧会 ( 院展 ) の第1回展にあたり、昭和19年、20年を除き、毎年秋に開催されてきました。日本美術院展覧会を開催できなかった昭和20年には、11月に日本美術院小品展覧会が日本橋三越本店で開かれました。こちらは第2回展から毎年春に開催されることになり、昭和34年に日本美術院春季展覧会と改称され、昭和45年からは春の院展として現在に至っています。

昭和33年5月、日本美術院は、2月に逝去した横山大観の意向に基づき財団法人となります。初代理事長に安田靫彦が就任し、昭和36年に特待制度が設置されました。昭和53年5月、奥村土牛が第2代理事長に、平成2年4月、小倉遊亀が第3代理事長に就任し、平成4年に招待制度を新設します。平成8年4月、平山郁夫が第4代理事長に就任し、平成10年、日本美術院創立100周年記念特別展「近代日本美術の軌跡」が東京国立博物館で展観されました。平成19年には、パリの三越エトワールにおいて《 L'ÂME ACTUELLE DU JAPON ― Etonnants Peintres INTEN 》( 日本画「今」院展 ) が開催され、平成21年12月、松尾敏男が第5代理事長に就任します。平成23年4月、公益財団法人となった日本美術院は、平成26年に再興100周年を迎えて、特別展「世紀の日本画」が東京都美術館で展観され、平成28年8月、田渕俊夫が第6代理事長に就任しました。

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