日本美術院 外伝 佐藤 道信
1 天心と海
高知の桂浜に、はるか海を見つめる坂本龍馬の像があります。ちょうどいまNHKで龍馬伝をやっていますが、海援隊をつくった龍馬も、幕府の海軍をつくった彼の師の勝海舟も、海を舞台に世界と向きあいました。そして開国を機に世界への窓となった横浜に生まれ育った天心にとっても、海は彼の思想の根幹に絡んでいたように見えます。
陸の帝国がローマ帝国やモンゴル帝国だとするなら、大英帝国は海の帝国、そしてアメリカは空の帝国といわれます。江戸後期にさかんに海防論が唱えられたように、19世紀は海の帝国の時代でした。日本にとって、海は世界につながっており、だから龍馬も勝海舟も海にのり出したのです。このとき海は、もはや漂流したら生きては戻れない異海の海でも、鎖国の海でもなく、未来につながる海でした。
五浦(いづら)の海に小舟をうかべ、六角堂から日がな海と空をながめていた天心にとっても、海は横浜の原風景以上の存在でした。ただ、龍馬や勝海舟にとっての海が、政治や軍事、外交、貿易の海だったのに対して、天心にとっては思想の海でした。すでに日米を往復し、国際的に活動していた天心は、ここで脱俗、 隠棲の思索にふけります。みずからデザインした道服を着て、釣糸を垂れる天心がそこに見ていたのは、時空をこえた世界の変転でした。絶えることなく変化する海と 波、空と雲、光と影。眼前の光景に、天心はおそらく現在につながる過去と未来を見ていました。天心が行きついた、混沌や循環、無限の変化という道教の世界観には、天心の場合、この海と空がイメージベースになっていたように見えます。
「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」(論語)。真理を索める智者は、変転する不定形の水にひかれ、有徳の仁者は、不動の山の包容力にひかれるということでしょうか。私には天心がこの智者に、そして仁者には、雄大な桜島を見て育った西郷隆盛が浮かんでくるのですが、みなさんはいかがでしょうか。
2 平山郁夫とシルクロード
2002年11月、ウズベキスタンへ向かう飛行機の眼下には、何時間も、どこまで行っても砂漠が続いていました。平山学長以下の東京芸術大学の訪問団に、私も加えてもらった時のことです。これが、平山先生に同行したただ一度の旅行になりました。
空から見ても途方もないこの砂漠は、地上なら際限のない距離のはずです。砂漠の向こうに天竺があるという情報だけをたよりに出発した玄奘三蔵の旅は、空から見ると自殺行為に思えました。灼熱と冷夜、砂嵐、乾ききった大地。生死や一生をこえた理想と求法の旅。しかし玄奘はおそらくそこで、同じ道を歩いて仏教を伝えた先人たちが確かにいたことを、肌身で身近に感じたことでしょう。同じシルクロードを遥かに旅した平山先生もまた、玄奘や先人の息づかいをひしひしと感じたのではなかったでしょうか。
天心の思想の根幹にあったイメージが、海だったとするなら(前回外伝)、平山先生のそれは、このシルクロードという大地の道でした。海に人の痕跡はのこりませんが、陸には人の栄枯盛衰の跡がのこります。天心は流動しつづける海に、永遠の循環を見ましたが、平山先生は、築かれては再び砂に還っていく人為の跡に、無常と永劫を見たのでしょう。
しかし彼らは、そうした永遠や永劫を前に、現在の無為と無力を感じたわけではありませんでした。逆に、いま自分がなすべきことの使命を、強く自覚していたように見えます。生涯、古社寺保存に深くかかわり続けた天心と、国境をこえた国際文化財赤十字に奔走した平山先生。彼らの活動は、人間の愚かさを受けとめつつ、過去から未来へいま自分がなすべきことの思いを共有しています。一緒の旅行で私が痛感したのも、この点でした。戦下の文化財への保護は、状況次第で努力が徒労になりかねない危険をはらんでいます。“それでも”あるいは“だからこそ”という思いには、はるかに遠く高い理想を見つめていた彼らの視線を強く感じます。
3 画号と風景
みなさんはどのような名前をお持ちでしょうか。親の名前の一字や、こうあってほしいと親が望んだ意味の字が入ったお名前になっていないでしょうか。自分で自分の名前を決めるのであれば、“こうありたい”という世界の名前を選ばれるでしょう。
その点から見ると、自分で画号(雅号)をつけた横山大観や下村観山、菱田春草らの名前は、彼らの性格やそれぞれの絵画世界を、とてもよくイメージさせるものになっています。リーダータイプで豪快な性格の横山大観は、「横の山から大観する」。控え目な性格だった下村観山は、「下の村から山を観る」。花鳥画に秀作が多かった菱田春草は、「菱の田に春の草」。いずれも風景、花鳥風景的なイメージの世界です。もともと日本の名字は、地理風景に多く由来しています。彼らの名前も、自分の名字をうまく生かした画号をつけて、一つの風景イメージをつくり出しているのです。
こうした名前は、18世紀末から京都の画家や南画家の名前にあらわれはじめ、近代に一般化しました。とくに画塾ではなく美術学校出身者の場合がそうで、大観や観山、春草もそうした人々です。明治期の彼らがめざしたのは、朦朧体のように、奥行きのある空間表現(3Dの風景画)でした。ところが明治末から大正期になると、大観らが琳派を志向したように、3D空間より鮮やかな色彩表現がめざされます。すると今度は、再興院展で活躍した今村紫紅や前田青邨らのように、色彩性の強い画号があらわれるようになりました。速水御舟(速い水に舟を御す)のように、動きをともなう名前もあらわれてきます。
しかしこうした画号は、戦後の日本画壇全体で大きく後退しました。画号を使うことじたいが後退し、実名を使う傾向が強くなります。そもそも洋画の場合は、明治からほぼ実名を使っていましたから、大きく見れば現代の日本画は、システム的にも洋画に近づいたといえるのかもしれません。
4 東京美術学校騒動裏面史
明治31(1898)年の東京美術学校騒動は、日本美術院が生まれる直接の契機となった事件です。これで校長を辞した岡倉天心と、彼に殉じた教員の横山大観、下村観山、菱田春草らが結成したのが、日本美術院でした。ところがこの事件は、藩閥政治という当時の政治状況を背景にして見ると、まったく違ったものに見えてきます。
そもそも私怨による一教員の怪文書が、なぜあれほどまでに燃えあがったのか。その火種は、東京美術学校の設置(明治20年)時点からすでにありました。フェノロサ、天心による伝統美術路線での設置は、西洋路線をとなえた時の文相森有礼(薩摩出身)の反対をおしきって実現したものだったからです。政府の重要ポストは、藩閥、つまり維新をなしとげた薩長土肥出身者によって占められていました。
一方、東京美術学校の中心人物たちの出身藩を見ると、天心の父はもと福井藩士、つまり徳川家の家門松平氏の藩士でした。また横山大観は水戸藩、下村観山は紀州和歌山藩、つまり徳川御三家の藩の出身者だったのです。いざ事が起こった時、藩閥で占められた本省側に、彼らを救う勢力がなかったことは容易に察せられます。学内が大きく揺れていたわけではありませんでした。天心が辞表を出した時、大部分の教員がいっせいに辞意を表明したため、あわてた文部省が留任への切りくずしをはかったのです。
ところがこの時、西洋学科はまったく動きませんでした。教員の黒田清輝は、薩摩藩の名門の出身、久米桂一郎は佐賀藩出身、つまり西洋画科の教員は、藩閥雄藩の出身者だったのです。もちろん彼らが事件をしかけたわけではありません。彼らはじっと動かず、天心も彼らが動けないことは知っていました。
こうして見ると東京美術学校騒動は、大きな時代背景から見れば旧佐幕系vs藩閥系という、前近代と近代のあつれきから生じた火薬に引火し、一気に暴発した事件だったと見ることができます。そして日本美術院は、いわば官立制度をめぐるそうしたあつれき後の状況として、相次いで生まれた美術団体の雄として活動していくことになったのです。
5 理想
茨城県取手市の東京芸術大学取手校地に、「理想」と書かれた石碑があります。平山郁夫先生の書になるものですが、この「理想」は岡倉天心が掲げ、日本美術院が一貫してめざしてきた理念でした。天心はどのような「理想」を抱いていたのでしょうか。
1901(明治34)年インドに渡った天心は、そこで『東洋の理想』の原稿を書きあげ、2年後英文著作としてロンドンでそれを刊行します。原題名は“Ideals of the East”。有名な一文「アジアは一つ Asia is one.」で始まる本です。アジアは“一つ”としながら、ここでの理想は“Ideals”という複数形になっています。天心はアジアを様々な理想が共存する緩やかな一つの共同体と考えていました。天心が共感した思想にも、道教や仏教、禅や茶などいくつもありますが、不思議なことに彼が特定の何かを理想と考えていた様子がじつはありません。天心の著述には、むしろ永遠や至上への強い渇望が通底しており、彼にとってはそれこそがまさに字義通りの「理想」だったようにも見えます。
「理想」とは実現可能なめざすべき最高の状態のことです。夢や理想といった言い方もしますが、あいまいな「夢」と「理想」は違います。思想や冥想、空想や幻想など様々な「想」があるなかで、理想は「理」の想(理論や理科の「理」)、つまりスジミチをもつ想のことです。そうなれたらという期待や希望ではなく、努力して到達すべき目標や目的というべきものでした。当時の辞典は、心理学用語としては真善美の完全な状態と記しています。
天心が生きた50年(1862~1913)は、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争と4度もの戦争があった時代でした。激動の時代だったからこそ、めまぐるしく変転する現実を超えた至高の精神世界に思いをめぐらせ、そこに理想と永遠を索めたのではなかったでしょうか。天心にとってそれを実現しうる唯一の道が、おそらく美と芸術の世界でした。平山先生の原爆体験と絵画世界も同じだったでしょう。それぞれの現実をふまえ、しかしそれを超えた理想を索めるはるかな視線、それこそが日本美術院に脈々と受けつがれてきた姿勢と志だったように見えます。