無謀な初出品 倉島 重友
随分と恐いもの知らずなことをしたものです。何の勉強もないまま、高校3年生の時、院展に出品しました。
日本画家であった父の姿や、中学生の頃、長野で開催された近代日本画展で、大観の「夜桜」や春草の「落葉」等に強い感銘を受けたこと、又、毎年春には一面杏の花に埋もれる村(長野県千曲市)に、油絵の絵描きさんが写生に訪れ、我が家に泊まっていかれる方も多く、青春時代の苦労話を聞かせて頂いているうちに、自分は今何かしなくてはという思いにかられてしまったのです。
両親には「大学で基礎勉強をしてからにしなさい。」とさんざん言われましたが、言い出したら聞かない性分で、とにかく院展に出品してみたいという熱病にかかってしまったようでした。描きはじめたのは老樹でした。見よう見真似で始めてみたものの、右も左もわかりません。ただ好き勝手にやっていると、それまで反対していた父が、いろいろ助言してくれました
夏休みには上京して、芸大の夏期講習会を胸おどる思いで受講しました。まわりを見渡せば、みな上手な人ばかりで、入試のことを考えると不安が募りましたが、歴史が匂う今は無き旧校舎で、憧れの先生方に直接指導して頂いて、満ち足りた気持ちになっていました。途中にしてきている出品画も気掛かりで、講習会終了後、急いで田舎に帰り制作の続きに力を入れました。
いよいよ搬入の日、リヤカーで2km程のでこぼこ道を母に押して貰い、汗だくになって集荷場に運びました。押しながら母は、ちゃんとした勤め人になってくれればいいのに、この子も大変な道に入り込んでいくのか・・・と思っていたに違いありません。帰路ひぐらしの鳴声にホッとし、これで何カ月か続いた熱病も一気に峠を越した感じでした。正直、万が一という期待感もあったのですが、何日かして選外の通知が届きました。
院展が始まるとすぐに会場で、雲の上の作品群に感動し、いつかここに自分の絵がはいれたらな・・・と夢を抱きました。帰途、谷中の大観先生の墓前に、今度は、芸大に合格できますようにとお願いしました。
願いが叶うにはなかなか時間がかかり、その後2年間の浪人生活を経て芸大に入学し、卒業と同時に出品し始めた院展でも、まだまだ落選を経験し、ようやく「会場で自分の作品を見る」という夢を叶えることが出来たのは、無謀な初出品から9年後のことでした。