院展出品で印象に残ること、初入選の想い出 那波多目 功一
何故絵を描く様になったのか? 一言で言えば私の父があまりに院展に落選するから。その事がきっかけで絵を描く様になったと云うことです。同じ町に二人の日本画家がおりました。画家といっても二人とも商売のかたわら絵を描いて院展に出品し落選を繰り返しておりました。その一人が私の父であり、もう一人が父の友人でした。二人は仲良く院展に出品し仲良く落選を続けておりました。二十年以上も続いたと母から聞きました。ある時、私が高校一年の秋の事です。父の友人が見事入選を果たしました。父は例によって落選です。そこから友人関係がガラッと変り、まるで師匠と弟子の様な関係になってしまったのです。二十回以上も落選続きだったのですから無理のない事かも知れません。でも父の悪口を町中に言いふらす様になった事に対しては許せませんでした。なんとかその悪口を止められないものか、家族や親類のくやしがりを見るにつけどうしても止めなければならないそう思う様になりました。それにはどうしたらいいだろう?自分も院展に入選しよう、同じ入選同士なら悪口も言えないだろうと大それた考えをもちました。
それからです。絵を描く様になったのは。どうすれば出品画が描けるのかはわかっていましたから。まず写生をしようと思いその場所を捜しました。写生しているところを人に見られるのはとても恥ずかしいので先ず人に見られないところを捜し、そこであたりを見回して描くところを捜しました。 そして初めての出品画に挑戦です。絵の具のときかたも、ニカワの分量もわかりません。その都度父に教わりましたが描き方は自分の考えで行いました。父に教わり同じ事をしたのでは又、落選すると思いましたので助言は一切聞かず一つ一つ左端から仕上げて行きました。左半分仕上がっているのに右半分は未だ白い紙のままと云うそうゆう描き方でした。幸にして幸運と偶然が重なり初入選する事が出来ました。非常に興奮し喜びました。自分の思いは達成し、やったと云う感じでした。これで一対一、誹謗中傷も止むだろう(ちなみに父もその友人も落選しました。)と思いましたがなかなかどうして、その後もいろいろな軽蔑の言葉が耳に入って来ました。まだ駄目かどうしよう、地方で知名度の高い日展に入選すれば完全に止める事が出来るにちがいない、あの人を見下ろすにはこれしか方法がない次第にそう思い込む様になりました。
次の年、院展入選の場所のすぐ脇のところ、池に映った木々を写生して日展に初挑戦しました。ほとんど水の映です。絵の具のとき方もわからない高校三年の少年があまりに無謀なものに挑戦したと、今、考えても背に寒いものを感じます。でもその頃は多感な時代、かなり熱くなっておりましたので恐いもの知らず、我武者羅に突き進んで行きました。そして又、幸運にも日展に初入選する事が出来ました。この頃にはさすがに誹謗中傷も聞こえてこなくなり、やっと目的を達成することが出来ました。親孝行も合せて出来たと思っております。父は多分複雑な気持ちではなかったかと思います。自分が永い間かかっても入選出来なかった事を息子が初挑戦で達成してしまったのですから、どの様に感じていたのか今はもう聞くすべがありません。
この二つの初入選、私はチャレンジのつもりでしたが結果的にリベンジになりました。今も私の心に大きな二つのピラミッドとして聳えております。もし父が落選続きでなかったら、もし友人の誹謗中傷がなかったなら、おそらく私は画家になっていなかったろうと思います。今考えます。父の友人は先導師であり恩人であったと思っております。でも好きで入った道ではありません。嫌いではないと思いますがあまり好きではない事は事実です。人は嘘だろうとおっしゃいますが私の本心です。ただ自分で云うのも変ですが仕事(絵)に対してはいつも真面目でいつも誠意をもって取組んでおります。その事が絵に表現されているとしたら幸に思います。年を重ねるに従ってゆっくりとした時間が過ごせると思っておりましたが、今は年々忙しくなるばかり、ゆっくり立ち止まって考える時間が欲しいと思っております。