院展と私 藁谷 実
毎年夏になると、日本画家だった父は院展の出品画を制作していました。私は幼少の頃から、夏が終わり9月になると、旧東京都美術館に家族で院展を見に行きました。パルテノン神殿のような門をくぐると、会場には大作が並び、父の作品を探しながらも同人や一般出品者の出来たての力作を見上げていました。その当時は、後に私も院展に出品するとは思いもよりませんでしたが、東京藝術大学大学院で、平山郁夫先生と下田義寛先生のもと、創作や模写の研究をする中で、院展に出品を始めました。平山先生のご指導は、「見聞を広め、自国の文化を学び、自分の道筋を自分で探しなさい。」という一貫したものだったと受け取っています。
初入選の1981年当時を思い返すと、日本美術院という伝統のある権威に向かい、私は若さゆえか反抗心を持ちながらも認められたいという矛盾の中で力み、自分の世界を創ろうともがいていたと思います。しかし、だいぶ後になって、もともと日本美術院の理念には自由があったことがわかってきました。受賞を重ねる頃には、自分にとっての制作は、世界を静かに観察し、内的考察を深め、自らの造形方針に従って描いた作品が独自性のある表現になれば良いと考えるようになりました。多くの先生、先輩や同級生、そして続々と新鮮な才能を見せ登場する後輩たちの中で、研鑽を重ねる院展という環境があったことで、現在まで制作を続けることが出来ていると感謝しています。全15巻の日本美術院百年史を紐解くと、有名無名の多くの画家が懸命に制作し、一丸となって発足当初に掲げられた「伝統を理解した上での新たな日本美術の創造」という岡倉天心の理想が世代を超えて引き継がれ、院展を形作ってきたことがわかります。
私は27年間、日本画の教育と研究のため広島市立大学に勤務しました。広島市には、春の院展及び院展の巡回展が地域のご協力を得て開催され、市民や卒業生、在住作家にとって大変有意義な文化活動であることをことを学びました。私は、東京を皮切りに全国に展開する純粋な研究発表の場である院展への一出品者として、意欲を持って前進したいと思います。近代日本の美術史に残る名作を生み出し続ける院展から、今後も重要な美術作品と位置付けられるものが生まれることを楽しみにしています。