東西の壁画を模写する機会に恵まれて

十六年前にさかのぼる。小生が東京芸術大学の研究室に居た頃、大学が文部省の助成を受けて、中部イタリアの丘の上の街アッシジのサンフランチェスコ大聖堂を調査研究することになった。日本画、建築、芸術学科の三学科から数名ずつ選ばれて昭和四十八年七、八月の約二ヶ月の日程で調査が行われた。小生もその一員として参加、日本画班は壁画の模写を担当、メンバーには平山、工藤両先生外四名が参加した。ヨーロッパ絵画の原点と言えるフレスコ画で、全く遠い別な世界と思っていた巨匠達に毎日接するうちに、段々身近になってきた記憶がある。絵の具の発色は日本画の顔料に近く、表現方法も東洋的な共通点があり、大変親近感を覚えたものだ。宗教や国や歴史の空間、時間を超えて、画家として相通ずるものを画面から感じられた。この調査を済ませて八月三十一日帰国した二日後、恩師前田青邨先生宅に呼ばれ、これから始まる文化庁依頼の、高松塚古墳壁画模写に参加する様にという話に、時差ボケも一瞬にして吹き飛び、同じ一年の間に西から東と、作家生活で一生に滅多にない機会に恵まれた事に感激したものを覚えている。前田先生の門下生六十数名の中から七名が選出された。作業は、十月に古墳への入室を許可され、壁画と詳細な色合せを行うことから始まって、昭和四十九年三月の完成迄の約七ヶ月間、北鎌倉にある前田先生宅の離れの仕事場で、休日返上で続けられた。原品が目の前にあれば良いが、一々対照して細部を確かめることが出来ず、一度だけの古墳入室の折の調査資料が頼りである。又七人の作家が日頃は個性をむき出しに仕事をしているのに、この場合ばかりは、個性を殺して一つの統一ある壁画にしなければならず、その為には、大量に調合した絵の具を分け合って使用したり、描法も、個性の出にくい細かい点描による方法がとられた。剥落や汚染の為に不明確な部分については、復元図を作って位置を確かめたりする事が、必要となった。この模写は、古墳壁画を一般公開することが困難な為、それに代わるものとして、発見時の姿を末永く記録にとどめる為の仕事で、正確にして細密極まりない全力投球の仕事となった。僅か一年の間に、西と東の壁画を模写する機会に恵まれ、細かに比較検討することが出来たことは、私の一生の宝となった。月日が流れ、メンバーの中で現在生存するのは平山先生と小生の二人だけ、まことに感慨深いものがある。